スター誕生名場面集
日本テレビ系列で放送された「スター誕生」
初代司会者でもあり、代表的存在でもあった萩本欽一さんは始まった直後の1971年10月3日から1980年4月6日までの全443回を担当しました。
1980年4月13日から1981年4月5日まだが2代目の「谷隼人さん・タモリさん」。
1981年4月12日から1982年1月3日までが3代目の「坂本九さん・石野真子さん」。
1982年1月10日から1983年9月25日までが4代目の「横山やすしさん・西川きよしさん」です。
尚当初は西川きよしさん単独でスタートし、やすし・きよしのコンビで司会を始めたのは1982年10月24日放送分から登場しました。
動画のラインナップは
昭和48年(1973年)スター誕生100回記念番組から「わたしの青い鳥(花売り娘)」
昭和50年(1975年)スター誕生200回記念ハワイ大会。
昭和51年8月「ねぇ!気がついてよ」
昭和54年4月400回記念ハワイ大会「サンタモニカの風」
昭和55年10月「Happy End The 百恵」
涙の卒業式(淳子・百恵・昌子)
1977年3月27日に日本武道館 で開催された引退コンサート
(クリックしましたら、記念植樹までの動画がご覧になれます)
昭和55年4月 欽ちゃん出演最終回
昭和58年(1983年)9月25日スタ誕最終回(司会者は、やすし・きよし)での桜田淳子さんのスピーチ
中三トリオの昌子さん・淳子さん・百恵さん
昭和48年 第4回日本歌謡大賞/放送音楽新人賞「わたしの青い鳥」
貴重な動画を有り難うございます。
皆さんペナルティー覚悟で投稿されておられますので、どうぞ、ご配慮よろしくお願いします。
ご迷惑をおかけして申し訳ございません。
動画が削除されたようです。
今しばらくお待ち下さるよう宜しくお願い致します。(09/4/11)
テレビの草創期から1970年代までの芸能界は「ナベプロ王国」と言われるほど、ナベプロのほぼ独占状態でした。
それに風穴を開けた番組が、この「スター誕生」でした。
故阿久悠さんとチーフプロデューサーの池田文雄の二人三脚の番組でもありました。
この番組によってナベプロ王国は崩れて、ホリプロダクション、サンミュージック、田辺エージェンシーが力をつけるキッカケとなった番組でもあります。
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ピンチをチャンスに!あの手この手の勝者「心理戦/桜田淳子と山口百恵」
でも書きましたが、少しだけ補充しておきます。
>しかし最終的には日本テレビの意向が強く働き、政治決着を
>するという形で桜田淳子さんのサンミュージック入りが決定しました。
>(桜田淳子さんは最初ホリプロ入りを熱望していたと堀威夫氏は
>自著「いつだって青春」の中で語っております。)
この部分の「政治決着」というのは少し誤解を招くかな?ということでの補充です。
別に「政治決着」というのは、胡散臭い意味ではなく、森昌子さんを既にホリプロがとっていたので、それでまた桜田淳子さんも取った場合に、1社に集中して歌手を集中させることになってしまうために、如何なものでしょうか?
そのように日本テレビから言われ、堀威夫氏は、それ以上反論する余地もなく、また今後のことを考えたらムリに桜田淳子さんを取りに行くことは得策ではないと判断したようです。
本文中では「強い行政的指導の結果(原文のまま)」と書かれており、この部分だけを見てみれば、胡散臭い裏取引のようなものがあったかのような誤解を生んでしまいますが、前後の脈絡を見ている限り、1つのプロダクションに偏るのは不本意だという日本テレビ側の意向があっただけのようです。
ただ桜田淳子さんに関してホリプロはプロジェクトチームまで組んで、獲得に乗り出していたのと堀威夫氏の構想の中核でもあった「ホリプロ三人娘/森昌子さん・石川さゆりさん・桜田淳子さん」の誕生を夢みていただけに、悔しさがにじみ出た文章であると言えます。
尚「本人(桜田淳子さん)も家族の気持ちも、ほぼホリプロ入りでほとんど決まっていた(原文のまま)」というのは実際に文庫本版204ページに書かれています。

